『FF』は高すぎる存在。イチから音楽をつくりたい。―ゲーム作曲家・植松伸夫が進んだ道
- 植松 伸夫(うえまつ のぶお)
- 作曲家
株式会社ドッグイヤー・レコーズ 代表
有限会社スマイルプリーズ 代表
1959年3月21日生まれ、高知県出身。神奈川大学英文科卒。1986年 株式会社スクウェア(現:株式会社スクウェア・エニックス)入社。『FF』こと『ファイナルファンタジー』シリーズほか、数々のゲームの作曲を手がける。1999年にFF8テーマ曲『Eyes On Me』が1999年度 第14回日本ゴールドディスク大賞「ソング・オブ・ザ・イヤー(洋楽部門)」を受賞。
2004年に退社後は、フリーの作曲家として『グランブルーファンタジー』などゲーム音楽を作曲し続けるかたわら、世界各国でオーケストラコンサートや自身のバンド“EARTHBOUND PAPAS”によるワールドツアーを開催。
2007年7月にNewsweek誌にて“世界が尊敬する日本人100人”の1人に選出される。
<株式会社ドッグイヤー・レコーズ>
創業/2006年10月4日
本社所在地/〒145-0071 東京都大田区田園調布5-54-9
最寄り駅/多摩川
※本文内の対象者の役職はすべて取材当初のものとなります。
2017.5.15 update/文章の読みやすさを改善しました。
2017.5.16 update/誤字の修正、カメラマンのプロフィールを更新しました。
2017.10.30 update/目次を追加しました。
<目次>
1.【予兆/取材前のこと】
2.【プレリュード/聖地で得た予言の「真実」】
3.【オープニング/植松伸夫の「音楽とオカルトのある生活」】
4.【クリスタルルーム/植松伸夫という作曲家】
5.【メインテーマ/植松伸夫の成長記】
『ファイナルファンタジー』制作秘話などスクウェア時代を語った後編はこちら!
1.【予兆/取材前のこと】
「ちぃちゃん、最近なんかゲームやった?」
「『ディシディアオペラオムニア』を少しずつやっているくらいですね~」
いつになくコーフンした面持ちのCareer Groove編集長の筆者は、古なじみのカメラマン・ちぃちゃんと多摩川駅で待ち合わせていた。
社会人になってからめっきりゲームをやる時間は減ってしまったけれど、ふたりとも大の『ファイナルファンタジー(FF)』ファンである。
なかでも筆者は、FFはゲームをプレイするより前に、音楽から入ったタイプだった。
幼少期からゲームが大好きではあったが、当時RPGといえば『ドラゴンクエスト』が絶対。FFは兄がプレイしているのを、隣で少し眺めていた程度だった。
しかし中学1年生のある日、当時仲のよかった2コ上のセンパイが、
「これ、すごくいいから! めちゃくちゃいいから! とにかく聞いて!!」
……と、ほぼ強引にFF5のアレンジアルバム『DEAR FRIENDS』を手渡してきたのである。
センパイの好意を無下にする勇気などなく、でもそんな馴染みのないゲームの音楽なんて……と正直、しぶしぶながら借りたそのアルバムを、家のCDラジカセにセットしてみた。
そうして、一曲目のイントロを聞いた瞬間。
……心が激しく揺さぶられ、涙がこみ上げたのを、よく覚えている。
以来、FFの音楽の世界、もちろんゲームの世界にもどっぷり浸かりこみ、今も折に触れてFFコンサートに足を運んでいる。
あの日から20年。
まさか、その音楽をつくった “雲の上の人” と、対談する機会が来ようとは。
そりゃ顔もにやけてしまうし、奮発してデジパをあてちゃうわけですよ。
やってきたのは「ドッグイヤー・レコーズ」。
スクウェア・エニックス退社後、フリーになった植松さんの音楽制作会社だ。
会社のロゴは、植松さんの愛犬「パオ」(現在御年16歳)をモチーフにしたものだそうだ。筆者は犬が大好きである。世の中がどんなに猫に傾倒しようと、バリバリの犬派である。
だから植松さんが犬を飼っていると知った時は、それこそ尻尾をちぎれんばかりに振ったものだ。ないけど。
こぢんまりとした雑貨ショップを思わせるアンティーク風の扉。その向こうに、ふとぶちメガネと口髭、そして優しげな笑顔の植松さんがいた。
CDのブックレットに載っている写真や、コンサートはもちろん最近はたびたびメディア出演されているのでその顔は見知っているが、やはり間近で見ると、あれだ。
あごひげのないサンタクロースみたいだ。
……そんな自分の心のつぶやきに気づくはずもなく(気づかれてもつらい)植松さんは快く、私どもを招き入れてくれた。
明らかに「FFファンです。植松さんが、FFの音楽が、好きで好きでたまりません!!」オーラをまき散らす我々のミーハーな心根に気づいているはずなのに(気づかれなかったらそれはそれでありがたい)あくまで腰の低いその姿勢に、心の底から恐縮してしまった。
2.【プレリュード/聖地で得た予言の「真実」】
●自分のすべてが書かれた『アガスティアの葉』
植松さんに会ったら、筆者にはどうしても聞きたいことがあった。
それは1994年、植松さんが35歳の時、インドで出会ったという『アガスティアの葉』のことだ。
その葉には古代タミル語で、訪れた人のプロフィール、過去から未来が、すべて記されているという。
植松さんは著書『人生思うがまま。』(非売品)のなかで、インドのある場所で自分の『アガスティアの葉』に巡り会い、これから起こるであろう運命を聞いたと語っている。
あれから20数年。植松さんの人生は、その葉に書かれた予言の通りになったのだろうか。
「あのあと、もう一度インドに行ったんです。どうしても、もう一度確かめたくってね。で、全部を覚えてるわけじゃないけど、あれも、これも……当たったなぁ。時期も含めて。
FF8の、フェイ・ウォンさんに歌ってもらった『Eyes On Me』って曲。その年の日本ゴールドディスク大賞(ソング・オブ・ザ・イヤー/洋楽部門)を獲りましたけど、実はアガスティアの葉にも『つくった歌がヒットする』と書かれてたんですよ。」
驚きである。
アガスティアの葉の予言について真偽はいろいろで、当たっている人もいれば、まったく当たってないという人もいるらしい。
植松さんにしても、決して予言のとおりに生きてきたわけではないはずだ。
しかしまぎれもなくインドには植松さんのアガスティアの葉があり、おおむね予言の通りになった。
その真実を、どう受け止めているのだろうか。
「恐怖のようなものは感じましたよ。でももしかしたら、僕のようなオカルト好きの人間には、そういうものを引き寄せる何かがあるのかもしれない。
でもね、最近思うんですよ。人にとっての “真実” ってさ、その人が信じていればいいだけの話じゃないですか。
神さまを強く信じている人の目には、きっと神さまが見えている。他人に伝わらなくても、それは問題じゃなくて。人には人の数だけ、その人にとっての “真実” があるんだと思うんです。
たぶん、夢を実現させることも、それと同じなんじゃないかな。疑いなく高みを目指して歩んでいける人って、やっぱりそこまで行けてしまうよね。
反対に、『結局、何をしてもうまくいかない』って思っちゃう人の前には――ほとんどの人が心のどこかでそう思ってしまうものだけど――やっぱり『うまくいかない、という真実』が目の前に現れてきてしまうんだと思うんです。」
信じれば、夢は叶う。その逆も、しかりだ。
●FFはあまりにも “高すぎる” 場所にある
筆者を含め『ファイナルファンタジー』ファンの大勢は、『植松伸夫』という人をはるか高みにいる人だと思っている。
ゲームの世界観を形づくる最も重要な要素といっても過言ではないサウンド、こと『ファイナルファンタジー』という世界的人気ゲームの第1作目からその作曲に関わり続けた、日本が世界に誇る “革新者” だ。誰も否定はしないだろう。
けれどFFの作曲家として “高みまでのぼりつめた” はずの人は、さらに驚くことを口にした。
「FFは、僕にとってはあまりにも “高すぎる” 存在なんですよ。
作品が人格を持って、作り手の意識から離れて、みんなから必要以上に崇拝されちゃってる。……まれにあるんだよね、そういうものって。
今の僕はFFという作品を下から、ずっと眺めているんです。FFと同じところにいて、もしもここから落ちてしまったら、大ケガしちゃうでしょ。
僕、そんなコワいところには行きたくないし(笑)まだ行けない、かな。」
1987年12月に産声を上げたFFは新作を生み続け、枝分かれを繰り返しては、熱狂的なファンを増やしていった。すでに親の意識を超えて、はるかなる高みにある。
その作曲者というだけで、作品の上にあぐらを掻くつもりはないのだ。
「FFとは関係ないところで、イチからまた何かつくりたいって思ってるんです。ちっちゃいライブハウスでバンドしながら日本縦断とか、あとは絵本をつくってみたりね。」
植松さんはFF11が発売された翌々年後の2004年、20年務めたスクウェア・エニックスを離れた。
フリーの作曲家としてFFはもちろん、『グランブルーファンタジー』など現在でも第一線でゲーム音楽を作曲し続けている。
そのかたわら、世界各国を飛び回っては、数々のコンサートを成功させてきた。
近年では「会場にいる全員が演奏者」という新しいスタイルの吹奏楽コンサートツアー『BRA★BRA FINAL FANTASY BRASS de BRAVO with Siena Wind Orchestra』が好評を博し、ゲーム音楽を新たなステージへと押し上げた。
おそらくこの先も「植松伸夫はFF音楽の父」と長く記憶されることだろう。
本人がどんなに謙遜しても、ゲーム史に残る業績を残した偉人の一人にほかならない。
その人が、リセットしてゼロからのスタートを切ろうとしている。
代表作があまりに大きくなりすぎているだけに、かえってプレッシャーに感じることはないのだろうか。
「何か新しいこと始める時、何しようかなって考えると、もうそれだけでワクワクしちゃうんだよね!」
植松伸夫、御年58歳。
いたずらっ子のような笑顔には、焦燥感のようなものは何も感じられなかった。
前置きが長くなってしまったが、今回はFF作曲家としてのこれまでの歩みはもちろん、何よりも一人の
“等身大” の人間・植松伸夫さん
について、できる限りクローズアップしてみた。
『ファイナルファンタジー』は、今年で生誕30周年を迎える。
『ファイナルファンタジー』とともに歩んできた植松さんが語るこれまでの半生、そして未来へ向けるまなざしから、何かを感じ取っていただければ幸いである。
3.【オープニング/植松伸夫の「音楽とオカルトのある生活」】
●音楽以外にやりたいこと ~フリーランスの作曲家となって
植松さんは1986年、28歳の時に株式会社スクウェア・エニックス(旧 スクウェア)に入社し、約20年間、会社員生活を送ってきた。
フリーになってからの植松さんの現在の活動は、どのようなものか。
「今は作曲かコンサートか講演、あとは、執筆の4つくらいですね。いずれ絵本をつくってみたいって思ってます。」
植松さんは幼少のころから、日記を書いたり詩を書いたりと、文章を書くことに親しんできた。『週刊ファミ通』で連載コラムをしていたこともある。
その独特の、軽妙かつユル~い文体は、読む人すべてを脱力させ、爆笑を引き起こす破壊力がある。
「なかなか書く時間は取れないけど、毎日ちょっとずつメモってるんです。音楽のアイデアから、どこそこのうなぎ屋に行きたいとか。
音楽以外に何かやりたいことがあるか、といったら、それの整理と、あとはオカルトのこと調べたい。」
序章でも述べているとおり、植松さんは自他ともに認めるオカルト好きである。
近所の神社で心霊写真が撮れたと聞けばそこにiPhoneをかざしたくなるし、行く先々で占い師をたずねては占ってもらっているらしい。
「それがウソでもホントでもどっちでもいいから、ハッキリさせたい。『知りたい』って思っちゃう。」
行ってみたい寺やパワースポット、はては未知なる宇宙の話についてまでアツく語っていただいたが、今後それについてまとめた本を出してくれそうな気配だったので、ここでは残念ながら割愛しよう。
●ビールはタイムカード ~フリーランスは休みがない!
スクエニにいた20年間の会社員生活と今とで、一番何が変わったのか。
「フリーになってから、ホントに休みがないんです。誰も休んでいいって言ってくれないし(笑)。そもそも仕事を断れないんです。 “食えない時代” を経験しているせいか『いつ仕事がなくなるかわからない』っていうのが常に心にあるんですよ。」
「次は仕事が来ないかも」という恐怖はフリーランスであれば誰しも抱えるものだろう。しかし植松さんほどの人物になってもあるとは、これもまた驚きだ。
植松さんの1日のスケジュールは、前日に何もなければ朝5時に起きて、作曲の仕事を始める。
作曲は早朝にすることが多く、アイデアが出るのももっぱら朝。そのため、午後はアイデアを練ったり、書きためたりすることが多い。
午後6時、仕事を終えてビールをプシュッ。
この瞬間が、一日のうちでもっとも楽しみだそうだ。
「ビール飲んで『ハイ、今日はおしまい!』っていう感じ。僕にとってビールはタイムカードなの(笑)。夜に予定が何もなければ、10時にはふとんの中にいるっていうのが理想です。」
4.【クリスタルルーム/植松伸夫という作曲家】
●雲をはがしていくように、曲のイメージをつくっていく
植松流の作曲法、作曲における着想の仕方について聞いてみた。
「シナリオはもちろん、ゲームやキャラクターのデザインとかがあったら見せていただきます。それを見て、こんな感じの曲かなっていう、ムードをイメージするというか。
たとえば、雲が覆われている場所で、さがしものを見つけようする感じ。実際に音を出しながら、その雲を少しずつはがしていくんです。」
FFの場合はどうだったのか。
「タイトルロゴが出るタイミングとか、意外と重要なんですよ。分かりやすいところだとFF7のオープニング。映像ではミッドガルの風景とともにロゴが現れますよね。そこがピークになるように音を当てていきました。もちろん、(映像より)先に音楽くださいって言われる時もあります。
僕はゲーム曲をつくる時は、メインテーマを先につくりたがるんです。世界観がつくりやすくなるので。
FF7メインテーマの『♪たーららたーらー たららたらたらら♪』(ゲーム中にも謎解きで出てきた“ドレミシラ ドレミソファドレド”の部分)のメロディーを考えた時、『これはいける!』ってメモに走り書きしたのをよく覚えてます(笑)。」
余談だが、筆者はFF7のメインテーマが植松曲のなかでも三指に入るほどのお気に入りだ。運指はつたないが、耳コピしてFF7のメインテーマをピアノで弾いては、ひとり悦に浸っていたものである。
ちなみに、曲名はどのようにして決まるのだろう。
「その時々。自分でつけることもあるし、とりあえず <バトル1> とか <ラストバトル> ってつけておいて、あとから『CD化するんで曲名つけてください』って宣伝部から頼まれたりね。誰かが『僕がつけたい』って言った時は、任せる時もあるし。」
FFファンとしては、ちょっとうらやましい話だ。
●ハードとともに広がっていく音の海の中で ~日本のゲーム音楽への懸念
よく聞かれるファミコンゲーム特有の『ピコピコ音』は、PSG音源というものだ。
それも3音しかなかったものが、次世代機のスーパーファミコンでは8音のサンプリング音源に、カセットからCD-ROMになったプレイステーションでは、ほぼ音に関して制限はなくなったといわれる。
「制限のない今のほうが、作曲は難しいよね。みんなやることが似通ってしまっているから、個性を出すのが難しい。」
植松さんはかねてより、「制限があったほうが工夫のしがいがあった」と語っていた。
今のゲーム音楽に関して思うことを、率直に聞いてみた。
「一番の問題は、どのゲームメーカーも、求めるものが似通っていること。ハリウッド映画のような音楽がついてりゃみんな大喜びなんです。すごく意識が低いよね。日本のゲーム音楽、というものに対して誇りがないと思ってしまいます。
みんな自分のことを “クリエイター” って言うけど、そう言うのであれば、『日本のゲーム音楽の次の一手はこうだぞ!』っていう気概や意識を持って、新しいことに取り組まないと。
言われたことをただやるだけじゃぁ、それはクリエイターじゃないでしょ~ただのサラリーマンじゃないのォそれはぁ~? って思っちゃう。だから最近のゲームって、おもしろいのがないんだよね。
だったらお前がやりゃいいじゃんって声が聞こえてきそうだけど(笑)。でもねぇ、新しいものをつくるって体力いるし、無鉄砲さも必要なんだよ。
残念ながら、歳を取るとそれらがなくなってくる。だから、新しいことは若い奴がやらなきゃダメなんだ。」
うーん。耳の痛い話である。
●作曲家として意識していること
植松さんが作曲する時に、特に気をつけていることは何か。
「モーツァルトのような完全無欠の、高尚な曲をつくろうとは思ってないんです。ちょっと気取った言い方になっちゃうけど、 “おしゃべり口調” で曲、つくりたいのね。
どういうことかというと、僕が感じた、いいと思ったもの、キレイだと思ったものを、『まあ聞いてよ! マジでこれいいからオススメ!』っていうように、おしゃべりみたいに、感情を “共有” できるような曲をつくりたいんです」
“思いを共有したい” というのは、TwitterやFacebookのようなSNS投稿の感覚に似ている。
植松さんはそれを音楽でやりたいということだ。
『BRA★BRA』コンサートも、みんなで演奏することで、みんなで音楽を楽しむという感覚を “共有” するのがひとつの目的だそうだ。
「あともうひとつは…… “人に手紙を書きたくなるような音楽” をつくりたい。僕の音楽を聞いてくれた人が、『そういえばあの人、元気にしてるかな』って昔の友達に連絡を取りたくなってくれると嬉しいな。」
筆者にも思い出深い1曲がある。冒頭でお話したFF5アレンジアルバム『DEAR FRIENDS』の1曲目、FF5メインテーマだ。それを聞くたびに、あの中学時代のセンパイを思い出す。筆者をFF世界に引きずり込んだ張本人だ。
その話をしたら、植松さんに「しめしめ」と笑われてしまった。
●広がっていくファイナルファンタジーの「演奏会」
近年、アマチュア楽団によるゲーム音楽の公演を目にする機会が増えている。
とりわけFFの曲は演奏曲としても非常に人気が高い。
それについて、植松さん自身は率直にどう思っているのかを聞いてみた。
「いいことだと思います。自分の作った曲がみなさんに楽しんでいただけていると思うと光栄です。
ただ、仲間内で楽しむ分には問題ないと思うのですが、有料のコンサートを開く際にはスクウェア・エニックスに了承を得てくださいね。これ、大人のルールです。」
長く音楽を楽しむためにも、ファンの一人一人が意識しておかなければならないことだ。
5.【メインテーマ/植松伸夫の成長記】
●積み重ねることの大切さ ~幼少・小学生時代
教師の父を持つ幼いころの「ノビヨ(伸夫/植松さんの愛称)」少年は、父が学校から持ち帰ってきたオープンリールデッキ(テープレコーダー)に興味津々だった。
「茶色いテープがオープンリールに巻きついた大きなものでね。こんなテープに、なんで音が入るんだろうってすごく不思議でした。それが音の世界に関わる最初のきっかけでしたね。」
音楽の世界に初めて触れたのは、小学校の時。
姉に連れられ、地元高知にやってきたウィーン少年合唱団の公演へおもむいた。
「それまでは音楽に特に興味もなかったんです。でも、初めて彼らの歌声を聞いたとたん、涙があふれましてね。初めての体験でした。全身が癒されるっていうか……それで “音楽っておもしろいな” と思ったんです。」
空想や作文も大好きだった。
通学路の往復で「怪獣」が活躍するお話を思い描き、壁新聞の記事を書いたり、掃除の時間に流れる音楽のメロディーに乗せて歌詞をつくってみたりした。
このころ、生まれて初めて作った歌『南の島のヤシの実物語』は、40年以上経った50歳の時に歌詞を完成させ、『植松伸夫の10ショート・ストーリーズ』に収録されている。
当時のことで「植松伸夫」のターニングポイントになったのが、 “バク宙” の話だ。
「そのころは日本の体操選手がオリンピックで大活躍していた時代です。選手たちのバク宙を見て、やってみたいな、と思いまして、それから毎朝、体育館に来て練習したんですよ。
蹴り上げる位置にマットを敷いて、ちょっとずつ、高く積み上げていって。そうしていくうちにできるようになった。
先生に教えられなくても、自分のやり方で積み重ねていけばなんとかなるんだ!ってこの時思っちゃったワケ(笑)。」
植松さんはもともと人から習うのが苦手なタイプで、師という師も特にいない。「常に地に足をつけて進む」という植松さんの思考の原点は、ほかならぬバク宙だった。
ちなみに、当時の夢は?
「はじめはそのオリンピックの体操選手でしたね。でもプロレスも好きだったんで、そっちよりもプロレスラーかなって。
オリンピックの選手って仮に金メダル取ったとしても、そのあとの道ってコーチとかでしょう。意外と寿命短いなって思ったんですよ。」
小学生にして、先の見通し方がハンパじゃなかった。
この男、末恐ろしい。と当時の大人は思ったのではあるまいか。結果はご覧の通りである。
●もしも ピアノが 弾けたn……弾けたー! ~中学時代
ネットどころか携帯電話もない当時は、ラジオから流れてくる情報が常に流行の最先端だった。
トランジスタラジオから流れる深夜放送をむさぼるように聞き、新聞配達のバイトで貯めたお金で念願のラジカセ(録音もできる!)を購入したノビヨ少年。来る日も来る日も、音楽を聞いて暮らした。
「アメリカの音楽のヒットチャートの1位から20位までを流すFM番組があったんです。それをレコーダーで録音してたんだけど、それだけじゃ物足りなくって、 “自分の” ヒットチャートをつくって過ごしてました。自分が気に入った、自分だけのヒットチャートです。
一週間やったら一週間分のチャートを合計して、その週のベスト10とか、年間のも出したりしてた。完全に自己満足だし、ヒットチャートマニアだよ。詳しすぎて誰も話についてこれない。まして勉強なんてするわけないよね(笑)。」
植松家には、お姉さん用のピアノがあった。そこで少年は “革命” を起こす。
「僕、全然ピアノなんて弾けなかったですよ。譜面見たってわからない。でもある日、ギターの譜面が載っている歌本があったんですけど、そのギターコードを弾く要領でピアノを弾いてみたんです。
そしたら……弾けちゃったんだなぁ。こんなにカンタンだったんだ!!って興奮しましたね。僕の人生の一番の革命だった。」
ピアノを弾く方ならお分かりかと思うが、ピアノ初心者はまずはバイエル、ツェルニーあたりを地道に、うんざりするほど練習させられるものだ。それが、バカらしく思えてくる話である……。
このころ、音楽と同じく興味を持っていたのが、詩の世界だった。
「歌詞と同じくらい、詩も書いてたなって、最近になって思い出しました。この間も、谷川俊太郎さんの詩を読んで感動してね。思い出したってことは、書けってことかもしれないね。」
詩人・植松伸夫が誕生する日も近いのかもしれない。
●しんどい時こそ、“我慢の哲学” ~高校時代
ほぼ必然的に音楽の道を志すノビヨ少年だったが、父のすすめで進学校・高知学芸高校に進んだ。
「中学校のころ剣道部に3年いたんですけど、全日本選手権のチャンピオンだった川添先生という方が、高知学芸高校の剣道部のコーチで教えていて。その川添先生に習ってみたい、と思ったのもあります。
でも次第に音楽のほうに惹かれてしまって部活にも顔出さなくなって。ある日、先生に呼び出されたんですよ。『剣道か音楽、どっちかを選べ!』って。即答で音楽と答えましたけど(笑)でも、川添先生の存在は大きかったです。」
同窓生である織田哲郎氏(※)から引き継いだ「ポテトーズ」というアマチュアバンドで活動していた高校生ノビヨ。進学校という環境のなかで押さえつけられて、かえってますます音楽への熱意を強めていった。
それでも、高校の時のある “教え” が、今も自分を支えているという。
「 “我慢の哲学” っていうのがあったんです。校則ではないんですけれど、教頭先生だかどなたかが朝礼で『我慢とはウンタラ~!』って話をエンエンしゃべっていたのが、すごく印象に残ってて。それで、『何かあっても我慢すりゃいい』って思えるようになりました。
確かに、イライラして何か言い返そうとしたらエネルギー使うし、それで相手が傷ついたりでもしたら、めんどくさいよね。だからラクですよ。しんどい時は我慢すりゃいいんだもん(笑)。
しんどい時は “ここからが勝負だ!” って思う。元気がある時は誰だって強い。だから全部、力を使い果たしたあとがホントの実力だって言われました。今でもそう思いますね。」
そういえば植松さんはいつもどこか飄々としていて、何かに怒ったりイライラするというイメージがない。
「一応、やり方があるんです。自分の中に “焼却炉” があるって思っているの。イヤなもの、いらないものを、その中に放り込んで火をつけちゃうんだ。そうすると燃えてエネルギーになる。……もしかしたら、単に “引きずらない” ってことかもしれないけど。」
万人にできるかどうかはさておき、ストレスをためやすい方は心の焼却炉作戦、お試しあれ。
●アメリカ密航未遂事件 ~大学時代
成長した青年ノビヨは、大学入学のため高知を脱出。
しかし父に音楽への熱意が伝わらず、音大に進むことを断念。神奈川大学の英文科に進学した。
「ロックが大好きだったから、歌詞カードで英語に親しんでいた。だから単純に英語が一番得意だったんだよね。
でも入ってみたらね、みんな勉強してないんですよ。授業出たら全員単位が取れる。別に勉強は好きでも嫌いでもなかったけど、『こんなものなのか』ってガッカリしちゃったんです。」
早々にキャンパスライフに興ざめした1年生の夏、ノビヨ青年は武者修行しにアメリカに渡ろうと考えた。
それまでは、まだ勤勉な学生らしい。しかし問題はそのあとである。
お金もパスポートもないノビヨ青年はこう思った。
「そうだ、密航しよう。」
「船が横浜港からアメリカに向けて出るっていうのをどこかで知って、それに乗ろうと思ったんです。それでそれまでお世話になった先輩に『ちょっとアメリカ行ってがんばってきます』って挨拶までして。
けどね、しばらくして……その先輩から手紙が来たんです。
『冷静になれ。もし見つかったら、お前の人生は台無しになる。ここはいったん、君を僕に預からせてくれないか。僕はいつか音楽でプロの世界に行くつもりだ。そのためにバンドをつくろうと思ってる。それに君も参加してほしい』
と……すっごく丁寧な手紙でね。それで僕はアメリカ行きを思いとどまって、そのバンドに参加することになりました。」
……危なかった。あのまま植松青年が若気の至りに身を任せていれば、『ファイナルファンタジー』というゲームは今のような名作たりえなかったかもしれない。
「でもバンドのギャラは1回3000円。神奈川大学のある横浜から渋谷のライブハウスの往復だけで、ふっとんじゃうようなお金です。これじゃ牛丼も食えない。
バンドって、音楽をやるだけじゃダメなんだ。それよりも曲を作ったほうがいいかもしれない、と思って、バンドはやめて、1人で曲を作るほうに専念していきました。」
それから植松青年は大学4年の時、CM作曲家の岩崎工(いわさき たくみ)氏が講師をやっていた音楽スクールに通い始める。しかし講義の内容のほとんどは既知のものだったので、岩崎氏と入れ替わりでそのスクールで講師のバイトを始めた。
ちなみに密航を企てた1年後に、奥様と出会っている。
「彼女は東急ハンズの正社員で、僕らが出入りしていたライブハウスの近くにあった渋谷店で働いていたんです。そこに、僕が入っていた音楽サークルの先輩も働いていたんで、そこによく顔を出していてね。コーヒーをおごってもらえたから(笑)。そこで出会ったのかな。」
植松夫婦の仲睦まじさは著書からもよく伝わっていたが、実際に会うと、植松夫婦の間の空気がなんとも心地いい。
ゲーム作曲家として偉大だけどスチャラカな旦那さん(すみません)を適度な距離感でコントロールしている(と勝手に感じた)。
年をとっても変わらない円満な夫婦生活というのをしてみたいものだ……とふと考えた筆者の心情をおもんぱかってか(と勝手に思った)、奥様は優しくコーヒーのおかわりを出してくれた。
(『後編』に続く)
[取材執筆・構成]
真田明日美
[写真撮影]
富山千尋