胃袋から世界平和を!『日本美食』社長から学ぶ “人生を最高傑作にする” メソッド
- 董 路 (Dong Lu/ドン・ルー)
- 日本美食株式会社 代表取締役社長
1972年生まれ、中国・北京出身。1992年に来日し、1994年に埼玉大学経済学部へ入学。卒業後、ゴールドマン・サックスに入社。その後渡米し、スタンフォード大学にて MBA(経営修士)を取得。2004年、中国に帰国後は外資系コンサル、ベンチャーキャピタリストを経て、2006年にファッションECサイト『Beyond Tailors(ビヨンド・テイラーズ)』を、2008年にランジェリーブランド『La Miu(ラ・ミウ)』を立ち上げる。2014年に事業を売却すると、2015年に再来日。外国人観光客向け飲食予約サービス『日本美食』を創業する。
<日本美食株式会社>
創業(株式化)/2015年12月1日
本社所在地/〒106-0031 東京都港区西麻布1-8-9 バルビゾンビル40 3階-A
最寄り駅/六本木
※本文内の対象者の役職はすべて取材当時のものとなります。
「人生を最高のものにしたいなら、“最高に過ごす” って決めたらいいんです。何が、あなたの心を妨げているのですか? 何もないはずです。妨げているのは、あなたの心。人生をどう過ごすかは、あなた次第ですよ」
そうアツく語るのは、日本美食株式会社の董路(ドン・ルー)さん。
中国北京に生まれ、日本の大学で学び、アメリカでビジネススキルを磨いた起業家だ。
そのグローバルなバックグラウンドと華やかなキャリアから、「あまりに遠くて違う世界の人」と思われるかもしれない。
しかし実際の董さんには、そんな距離を感じさせない親しみやすさがあった。
あふれんばかりの明るいオーラ、そして流暢な日本語によって、さらに距離が近く感じられる。
董「日本に来て、本当に自由に、好き勝手に生きてきたと思っています。チャレンジすることが好きなんです。慣れ、というのが一番怖くて。だからこれからを生きる若い世代の皆さんにも、“最高の人生” を過ごしてほしいんです」
国籍や言葉の違い、世間の価値観。そういったものにとらわれず、慣れを嫌い、チャレンジし続ける姿勢。そこには、経営者にありがちな超然とした態度は見受けられない。
董「一番大切なのは、自分を含め、自分の身の回りの人を幸せにすること。自分自身楽しみながら、家族や友達、そして従業員も。自分と関わる人みんなが幸せになってくれたら、これ以上のことはないと思っています」
誰よりも大切な、愛する家族のいる生まれ故郷、中国。
ビジネスマンとしてあるべき姿を教えてくれた自由の国、アメリカ。
そしてどこよりも安全で快適な、地球上で一番素晴らしい国、日本。
海を越え、国をつなげ、自分も他人も、全員が幸せになるビジネスを築きたい。
そんな董社長の一途な思いから生まれたのが、株式会社日本美食である。
その設立の経緯、そして董さんが歩んできたキャリアから “自分の人生を最高傑作にする” ためのメソッドを探った。
最高の “食” 体験をサポートするアプリ『日本美食』
●コンセプトは “胃袋から世界平和”
2017年9月15日で、訪日外国人客数が累計で2,000万人を超えた。これは、昨年と比べて45日早い到達だという。(※)
この数字が意味するのは年々高まる日本への強い関心、そして日本政府と民間企業によるインバウンド事業の成果が着実に実り始めているという事実だ。
日本政府が “Visit JAPAN” キャンペーンを打ち出してもうすぐ15年。
地図を手に外国人が歩く姿は、すっかり見慣れたものになってきている。
とはいえ長年、基幹産業を “ものづくり” に頼ってきた島国日本は、未だ “観光” 面に関して対策不十分な点が多い。
外国語を併記した看板は増えているのに、外国語を話せる人が少ない。
クレジットカード決済ができず、日本円の現金しか使えない店が多い。
マニュアル対応一辺倒で、十分な説明をしてくれない。
……などなど、外国人への配慮が足りていないのが現状だ。
インバウンド事業が活況の今こそ、一刻も早い訪日外国人へのサービスの拡充が求められている。
いっぽうで迎え入れる側である日本の店も、増え続ける外国人観光客の対応に苦慮しているところがほとんどだ。
日本が真に “観光大国” になるには、外国人観光客と日本人、互いにストレスなく共存できる社会を築く必要がある。
では、日本が名実ともに、真の観光大国となるにはどうすればいいのか。
そのカギとなるのが、日本全国に61万件(※)以上もあるという飲食店だ。
董「日本に来る外国人のトップ3は、中国、台湾、韓国(※)です。この間まで、中国人の “爆買い” という現象がありましたが、今はそれも収まりつつあります。
訪日外国人観光客が今求めているのは、買い物よりも “体験”。特に日本の食事を楽しみたいという人が多いんですよ」
日本の人口減少に比例して、日本の外食産業は年々縮小傾向にある。
国内の新たな需要が見込めない飲食店にとって、ますます増えていく外国人観光客を取り込まない手はない。
董「ある日、日本に遊びに来た中国の友人に『日本のおすすめのレストランを紹介してほしい』と頼まれたので、僕の知っているお店をデータにまとめて教えました。そうしたら、想像以上に喜んでもらえたんです。
ここまで喜んでもらえるのなら、もっと大勢の人に、日本の飲食店の情報を発信したい。外国人向けの飲食店の情報メディアをつくれば、観光客と日本人、双方ハッピーになる……それが、日本美食のアプリをつくろうと思ったきっかけでした。
僕は、日本が大好きです。世界一素晴らしい国だと思っています。日本を訪れる外国人のみなさんには、日本のおいしい料理と上質なサービスを体験してもらって、最高にいい思い出をつくってほしい。そして日本という国のファンになってほしいんです。そうなれば、戦争なんて決して起きないはずです。
『胃袋から世界平和』。これが、僕らの事業のスローガンです」
●訪日観光客と、日本の飲食店。それぞれの “ペイン・ポイント”
董「日本は世界で類を見ないほど、レストランの多い国です。むしろレストランが多すぎて、外国人の観光客はどこに行ったらいいか、何を食べたらいいかがわかりません。
いっぽうレストランのほうも、外国人観光客に対してどうアプローチし、対応すればいいかわからず困っています。
こういった、両者が抱える “ペイン・ポイント” を解決し、仲立ちをするのが日本美食です」
ペイン・ポイントとは痛点、いわゆる “悩みの種” のこと。
董さんが指摘する、訪日観光客のペイン・ポイントとは以下の4点だ。
<訪日観光客が感じるペイン・ポイント>
・探せない
・通じない
・予約ができない
・払えない
星の数ほどある飲食店から、自分が食べたい店、サービスのいい店を探すのは至難の業だ。しかし当時は有名なグルメ予約サイトでも外国人向けのものはなく、店の探し方がわからない。ガイドブックを手にして探しても、予約がないと入れない店もある。そもそも予約のために電話をするというのも、日本語が使えない外国人にはハードルが高い。
また、いざ入店してみてもほとんどのシーンで外国語が通じずコミュニケーションが取りづらかったり、たとえ外国語表記のメニューがあっても、その料理の具体的な食べ方がわからなかったりすることもしばしば。日本食を楽しみに来たはずが、刺身をソースにつけて食べてしまった……といったこともよく聞く話だ。
しかしこうしたペイン・ポイントのなかでも、特に中国人がもっともストレスを感じているのが、決済に関してだという。
董「実は中国では『銀聯(ギンレン)』や『Alipay(アリペイ)』、『Wechat Pay(ウィーチャットペイ)』といったスマホ決済が普及していて、買い物はもちろん電車やタクシーなど、あらゆる生活シーンで活用されています。
いっぽうで日本のお店、特に地方の小さなお店などは、現金支払いがほとんどですよね。スマホ決済に慣れている中国人にとっては、日本の支払いはとても不便に感じられるのです」
日本ではまだまだなじみの薄いモバイル決済だが、中国を始め、海外ではモバイル決済が当たり前になりつつあるという。
モバイル決済ができる店は、日本ではまだまだ限定的だ。そういった意味でも、日本は観光地として相当、世界から立ち遅れているということだろう。
いっぽう日本の飲食店も、外国人観光客に対して2つの悩みを抱えている。
<日本の飲食店が感じるペイン・ポイント>
・ドタキャンとNo Show
・日本人リピーターの減少
董「まずドタキャンとNo Showについてですが、ドタキャンとは直前で予約をキャンセルすること、No Showとは予約しているのに店に現れないことです。店にとっては完全な利益損失になるNo Showのほうが、より悪質ということになります。
No Showは日本人ではまずありえませんが、中国人のNo Show率は実に60~70%にのぼります。大変残念なことですが、これが現実に起きてしまっているんです。
もう1つのペイン・ポイントが、観光客のマナーについてですね。外国人のお客様に来てほしいと願いながら、あまり来すぎてしまうとマナーの悪さが目立ち、日本の常連さんが離れてしまうんです。
飲食店の利益はリピーターによって成り立っているといっても過言ではありませんので、リピーターが減ってしまうと売り上げの減少につながります」
訪日観光客と日本の飲食店がWin-Winの関係になるには、これらのペイン・ポイントを解消しなくてはならない。
そこで董さんは「外国語対応」「事前決済(プリペイ)」「導入コストゼロ」というコンセプトで、グルメサイト『日本美食』を立ち上げた。
董「多言語システムを使い、我々が厳選した日本のレストランをオンライン上で予約可能にしました。予約時に事前決済しますので、万が一、No Showとなってもお店側の損失は最小限に抑えられます。
ほかにも、もしも店内でほかの料理も追加注文したくなったとしても、スマホにQRコードを読み込ませるだけで決済できるようにしました。これなら現金がなくてもその場でスムーズに支払いができます。
お店側も、クレジットカード決済で必要なデバイスは持たなくていいし、特別な操作を覚える必要もないので、導入コストはほぼゼロ。双方に一切、負担がかからないシステムになっているんです。
私の考えるビジネスモデルのモットーは、誰も犠牲にしないこと。私自身はもちろん、お客様もお店も、そして従業員も、みんなハッピーじゃなきゃいけない。世界はゼロサムゲームではいけないんです」
『日本美食』の仕組みには、董さんの社会への、そして平和への強い想いが込められている。
夢と現実、アイデンティティの狭間のなかで――幼少期~学生時代
●人としての生き方を教えてくれた祖父
人とは何か。人として生きるとはどういうことか。
中国の清華大学の教授だった董さんの祖父は、いつもそんな話を生徒や孫たちにしていたという。
董「『自分は知識を教えているんじゃない。人間とはどう生きるべきかを教えているんだ』と、いつも話していました。僕の今の生き方は、祖父の影響が大きいと思います」
自分らしく、好きなことは好きなだけやればいい。
そんな祖父の教育方針もあり、董少年は自分の心のまま素直に、興味の向くほうを選ぶ生き方を進むようになる。
このころから董さんが特に興味を持ち始めたのが、絵画やファッションといったアートの世界。自然と、アーティストやファッションデザイナーの夢を思い描くようになった。
しかし教員、公務員と、アカデミックな職に就くのがならいだった董一家で、デザイナーという職業は、あまり歓迎されなかったらしい。
董「当時の中国、特に我々の親世代は、いわゆる “理想主義” が多かった。金もうけは二の次で、自分の理想のために働くのがいいと言われていたんですね。デザイナーとはいわゆる “商売人” というイメージで、いい目では見られませんでした」
中国でデザイナーを目指すのは厳しい。董さんは20歳の時、祖父の教え子の一人が日本に向かうと知ると、彼の手伝いをするという名目で日本へ留学することになった。
●新天地・日本へ――勉強とバイト漬けの日々
「なんて明るい国なんだ!」
夜、成田空港に降り立った董青年の目に飛び込んできたのは、無数の蛍光灯の光。
空港でも駅でも街中でも、闇夜を照らすまばゆい光は、20歳の若い心を強く揺さぶった。
董「中国の首都である北京の空港でも、当時の電灯はすべて白熱電球で薄暗かったんです。だから日本に着陸した時、『まぶしい!』って思いました。どこにいっても景色が昼間のように明るく見えて……最高の気分でしたね」
なんとか東京で住まいを見つけると、日本語学校に通いながらバイトをする生活が始まった。
午前中に学校の授業を終え、午後は地下鉄のエアコン掃除、そして飲食店の皿洗いのアルバイト。
日本語がほとんど話せなかったため、できるバイトは力仕事に限られていた。
董「飲食店は重労働でした。ニオイもつくし、いつも汗まみれ。23:00に終わってへとへとになって帰ってきて、銭湯行って寝るのは夜中の1:00過ぎという生活です。
そのうち少しずつ料理も任せてもらえて、最終的にはお客さんの前で鉄板焼きをつくれるようになりましたけれど、この時、知られざる飲食店の地道な苦労を知ることができました」
異国の地で勉強とバイトの両立は簡単ではなかったものの、日本の文化や環境に触れ、すっかり日本が気に入った董青年は、そのまま日本の大学を目指すことになった。
アートやファッションへの興味は薄れていないが、夢ばかり追いかけるのも現実的ではない。そこで将来的に役に立ちそうなビジネスの勉強をしたいと考え、経済・マーケティングを専攻。
学費の安さに魅かれ、埼玉大学へ入学した。
●埼玉大初! 国際交流サークルの結成
董さんは母校の埼玉大で、今も年に一度、起業を目指す大学生向けのセミナーを行っている。
そんな董さんが埼玉大に残した大きな足跡の一つが、国際交流サークル『Try Me(トライミー)』の結成だ。
董「埼玉大には100人以上の留学生がいましたが、それまでは留学生同士が交流できる場がなかったんです。そこで、埼玉大初の国際交流サークルをつくりました。普通の部活やサークルは堅いものが多くて、なじめなかったのもありますが(笑)」
結成当時の『Try Me』のメンバーは中国人しかいなかったものの、次第にカンボジア人、オーストラリア人、モーリタニア人……と、文字通り国際色豊かになっていく。
サークル内の公用語は日本語、英語、そして中国語。学校の支給額で足りない分は、学園祭でそれぞれの国の伝統的なダンスやスポーツを披露したり、料理屋台を出すことでまかなった。貯めたお金で、皆で沖縄まで遊びに行くこともあったという。
董「スタンフォード大にMBA留学した時も、同じように『Greater China Business Club』という組織を結成しました。大学でサークルをつくった時から、組織をつくって動かすことの楽しさ、誰もやっていないことを創りだす楽しさに目覚めた気がしますね」
董さんの残した『Try Me』は、留学生同士の情報交換の場として、今も存続している。
●立ちはだかる国籍の壁――苦戦した就職活動
1995年、時代はインターネット黎明期。
独学でプログラミングを学んだり、教室のLANをつないだり。アメリカに住む学生とチャットでコミュニケーションをとったりするうち、董さんは次第にコンピューターの魅力にハマっていく。学校の勉強では、マーケティングの分野にも興味がわいていた。
しかし、経済やマーケットを学んだところで、食べていけるのか? いくら日本語がうまくなったところで、100%日本人になれるわけではない。外国人として、いったい自分は日本でどう生きるべきなのか――将来への不安が、常に頭を覆っていた。
董「知識よりも、何かスキルを持っていないと生き残れないかもしれない。そう考えた時、コンピューターのエンジニア職なら、外国人である自分でも力が発揮できる場所があると思ったんです。
でも、営業職のようなソフト面の仕事もしてみたかったので、システム技術とビジネス、両方が学べる仕事を探しました」
就職先に選んだのは、銀行や広告、保険会社など。
年収が高めで今でも学生に人気の大企業ばかりだが、どこも欲しているエンジニア枠なら、採用される自信はあった。しかし。
董「このころの僕の日本語は、来日した当時よりも格段にレベルアップしていました。むしろ外国人だと気づかれないまま選考が進むほどです。
けれども僕が外国人であることを知るや否や、そこで落とされてしまっていました」
以来、董さんは自己紹介の時に「中国の北京から来ました」と、自分が中国出身であることを先に明かすことにした。そこで面接官が渋い顔をすれば、その時点でその会社はハズレ。こうして受けていった会社は30社にのぼったが、そのほとんどが門前払い状態だった。
閉鎖的な日本企業は難しい。
そう判断すると、外資系企業に狙いをシフトする。
そうして董さんが行き着いたのは、インターンの経験もあったゴールドマン・サックスだった。
最高の人生を送るメソッドを学ぶ――ゴールドマン・サックスとスタンフォード時代
●入社確率1%以下! 埼大出身の中国人がゴールドマン・サックスに入れた理由
ゴールドマン・サックスは、いわずと知れた世界でもっとも優秀な金融企業だ。
ニューヨークに本社を置き、証券、投資など、幅広い分野で圧倒的な存在感を示し、世界経済を根元から支えている。
当然ながら、世界レベルの超優秀な人材が世界中から集まってくる。
日本でも東大、京大クラスの学歴を持つ者以外は選考の場にすら立てない。
董「新卒採用自体がほとんどないうえ、採用枠もものすごく狭い。普通に入ろうしたらまず無理なのですが、実はゴールドマン・サックスでもエンジニア不足でした。エンジニア枠なら埼玉大の僕でもチャンスがあると思ったんです」
しかしそれでも当時の応募者数400人に対し、採用はたった1人だけだったという。
採用される確率約0.25%というあまりにも狭き門を、董さんはどうやってかいくぐったのか。
董「まずは採用担当の人に『エンジニアとして応募したい』と電話しました。けれど、『経済学部じゃだめ。コンピューターを専攻していなければ採らない』とすぐに断られてしまって。でも諦められず、後日もう一度電話したんですよ。
今度は違う方が電話に出ました。『あなたは埼玉大学の、コンピューター専攻ですね?』と聞かれたので『はい、私はコンピューターを “勉強しています” 』と答えました(笑)」
物は言いようである。
無事に選考の場に立つことができたものの、董さん以外の応募者は皆、学校でコンピューターを学んだ生粋のエンジニアたちばかり。そのなかで、董さんが選ばれたのは一体なぜなのか。
董「ほかの人よりも、英語を話せたのが大きかったんだと思います。あとは、おとなしめでシャイな性格が多い日本の理系男性に比べて、僕はこの通り、明るくておしゃべりでポジティブな性格でしたから、目立ったんだと思いますね」
ゴールドマン・サックスの面接は董さんが受けただけでも30回を超えたという。
実際はどのようなものだったのだろうか。
董「僕の時の面接担当者はトルコ人の方でした。面接中はすべて英語です。僕の履歴書を見て、自己紹介してくれといわれたので、まずは『I came from Beijing, China.(僕は中国の北京から来ました)』と言いました。今まで通り、中国人でも受け入れるかどうか確認したかったので。
しばらく様子をうかがっていましたら、『……so what?(続けて?)』って不思議な顔されましてね。あ、ここでは思い切り、自分を出せるぞ!と嬉しくなっちゃって。それからずっと、自分のことをしゃべり続けてしまいました」
仕事さえこなせれば、性別や国籍、言葉の違いはまったく関係なし。
そうしたアメリカ流のフラットな社風は、董さんの心を瞬く間につかんだ。
董「企業は、社会の縮図ですよね。ゴールドマン・サックスでは社員みんなフレンドリー。ボスの部屋はいつもオープンだし、誰に対してもフラットに接します。もしも身体障害者の方が入社されたら、ドアをすべて自動ドアにしてフルオープンにするほど。それだけ、“仲間” という意識が強いんです。
そのかわり超実力主義ですが、僕にとっては精神的にすごく楽な社風でした。中国も、日本よりは実力主義的な風潮がありますが、やはりアメリカほどではありません」
●ミッション:「人生最高の1週間を過ごせ!」
ゴールドマン・サックスで、董さんはプライベート・バンキング(富裕層向けの金融コンサル)部門に配属。日本の名だたる資産家たちと接しながら、ファイナンシャルアナリストとしての経験も積んでいった。
そのようななかで董さんの人生観に大きく影響を与えたのが、MBA取得のためにアメリカ・スタンフォード大のビジネススクールへ留学したことだ。
世界最難関といわれるスタンフォード大のビジネススクールで、董さんはどんなことを学んだのか。
董「印象的だったのは、週1回行われた授業の課題です。その課題内容というのが、
“あなたのすべてを尽くして、最高にハッピーな1週間を過ごすこと”。
次の授業で、各々過ごした1週間について発表するんですよ。人生で、一番ハッピーな1週間を過ごすとして……想像してみてください、すっごくワクワクしません?
“最高の人生にするかしないかは、自分次第だ” というマインドをつくることが、この授業の目的だったのです。
自分で “最高に過ごす!” と決めたら、毎週、毎日だってすればいい。自分が考える “最高” の定義に沿って過ごせば、おのずと幸せな人生を送れるのです」
好きなことだけしていたい。
自分はこんなはずじゃない。
もっとやれることがあるはずだ。
常にそう自分に問いかけながら過ごしている人は多いだろう。
しかし「やりたい」と思っても、なかなか動き出せないのが人の常だ。
……今はお金がないから。
……今は時間がないから。
……今はそのタイミングではないから。
董「何が、あなたの心を妨げているのですか? 何もないはずです。妨げているのは、あなたの心。人生をどう過ごすかは、あなた次第ですよ」
やりたい仕事を自ら創りだし、自分の手で進めていくことの意義をスタンフォード大で学んだ董さんは、この時から “自分にしかできない仕事” は何かを考え始めていた。
自分にしかできないことをするために――帰国、そして起業
●中国随一のランジェリーサイトの設立
董さんはMBA取得後、2004年に中国に帰国。
まっすぐに中国に帰った、その理由とは。
董「以前はネイティブの人と同じ土俵の上で、ネイティブの人以上に仕事ができる自信はありませんでした。けれど今は日本で、あるいはアメリカで生きていくことは十分可能だし、個人的な成功はできたと思うんです。
でも、僕の価値を一番発揮できるのはどこかと考えた時、母国である中国じゃないかと考えました。
僕は日本語も英語も話せる。日本の価値観も、アメリカの文化もよく知っている。中国でなら、僕の経験を一番活かせるはずだと思ったんです」
中国に帰国したあとは外資系コンサルに入社し、ベンチャーキャピタリストを経験しながら、自分の真価を発揮できる場を模索。
考えた末に導き出した答えが、昔から好きだったアートやファッションの世界への挑戦だった。
董「自分の初心に戻りました。ビジネスとしてお金をもうけることも大事なんですが、それよりも自分が好きなこと、失敗したとしても後悔しないことをやるほうが大事だと思って。それで大好きなファッションの分野で、何かビジネスができないかを考えました。
そうして立ち上げたのが、カスタムメイドのシャツをネット上で販売するECサイト『Beyond Tailors』です。
ファッションを含め、衣食住に関する事業は、人間的欲求やニーズに応えるべく発展し続けた伝統産業です。成熟しきったこれらの伝統産業に対して新たな価値を生むためには、テクノロジー(技術)とファイナンス(金融)、つまりインターネットと資金が必要だと考えました。この2つの翼さえそろえば、圧倒的なスピードで市場を開拓できると」
当時、中国にはオンラインで服を買えるサイトがなかったことに目をつけた董さんは、ベンチャーキャピタリストとしての経験を活かしてさらに合計30億円の資金を調達すると、中国で人気のランジェリーブランド『La Miu』のECサイトを立ち上げた。
『La Miu』のサイトは評判となり、アメリカの人気ランジェリーブランドになぞらえ、“中国版『ヴィクトリアズ・シークレット』”と呼ばれるほど一大ファッションサイトに成長した。
守るべき人を守ることが自分の責任――ふたたび日本へ
●4時間後のプロポーズ
中国で2社の起業を成し遂げた董さんは、2014年、突然事業を売却。日本に居を移すことになった。
それはある運命的な出会いがきっかけだった。
董「実は中国に旅行に来た日本人の女性に一目ぼれしたんです。彼女と出会って、4時間後にプロポーズしました。日本に移住した最大の理由は、子どもを日本で育てたいと思ったからです」
電光石火のスピードでふたりはめでたくゴールイン。結婚当初は中国に住んでいたものの、董夫人の妊娠がわかってからは、より快適で安全な場所を求めて日本移住を決意した。
董「これまで自分は、居心地のいい場所にとどまることを恐れて、チャレンジし続けてきました。妻も僕のわがままにずいぶん合わせてくれましたね。
でも家族が増えるとなった時、やっぱり家族が一番大事だっていうことに気づいたんです。お客様を幸せにしたいなら、まずは自分の一番身近な他人である家族を幸せにしないといけない。であれば、少なくとも家族には快適な場所にいさせてあげたいし、それが僕が果たすべき責任だと思いました」
たとえ事業を手放しても、家族あってこそ仕事が成り立つ。
そうして日本で新たなスタートを切った董さんは、中国の友人に日本のレストランを紹介したことをきっかけに、日本美食を設立した。
最高の人生を歩むために必要なのは、人生をクリエイトする力
●日本美食の未来
日本美食は現在、東京と北京にオフィスを構えている。今後についても、まずは訪日客の多い中国をメインマーケットとして展開していく構えだ。
董「僕がネイティブの中国人だからこそ、中国人が日本の飲食店を利用する時の不便さはわかるし、彼らにどうアプローチすればいいかもわかります。今後もし海外にオフィスを置くとしたら、現地のネイティブの方にアテンドをお願いしたいですね」
日本美食の従業員はほとんどが中国人だが、日本人の社員もいる。なかには董さんが埼玉大で行った講演に刺激を受けて日本美食へアルバイト入社した人もいるという。
董「僕は採用において、2点を重視しています。まず、どんな小さなレベルでもいいので “お金の稼ぎ方” がわかる人。それは単にお金儲けがうまいという話ではなく、 “どういった経緯でお金が入ってくるのか” をしっかり認識し、身につけているかということです。
たとえ社会人でも、会社員として漫然と仕事をし、1ヵ月分の給料が振り込まれるのをただ待っている人よりも、自分の力で稼いだという実感のある人のほうが社会に価値を提供することの意味をわかっているはずです。
社会的に価値あるものを提供した時に、お金は入ってくる。価値のないものは、一時的に存在したとしても続きません。
もうひとつは、高い志を持っている人。商売人は、理想が高くなければだめです。高く険しい山を登りきるためにはどうすればいいか……途中で死んではもちろんだめだし、登りきるために目先のことを考えなければならない時もあります。
だからたとえ学生でも、社会でどう生きていくべきか、目標と理想がある人を歓迎しています」
●最高の人生をクリエイトする生き方
国籍の違いをものともせず、常に自分の好きな方へと進んできた董さんの心には、常に “最高の人生を過ごす” というスタンフォード流の生き方が根付いている。
董さんのように、仕事を通して最高の人生を楽しむには、具体的にどうすればいいのだろうか。
董「“Creativity in Business” 。他人のビジネスにただ乗っかるのではなく、そのビジネスを通して、自らクリエイティブに生きることが大切です。
どうすれば自分の人生を最高にできるか、を徹底的に考えましょう。ビジネスは、自分がハッピーになるための手段でしかありません。
この日本美食という場で最高の人生をクリエイトしたい人がいるなら、ぜひ一緒にやりたいですね」
今も年に1度、埼玉大へ起業家を目指す学生向けに講演を行っているという董さん。 まだ見ぬ社会へ飛び立つ彼らに対し、董さんが伝えたいことは。
董「あなたなりに、最高の人生を過ごしましょう。あなたの人生を最高の作品にして、この世に残してほしいと思います」
最高の人生を歩むのは、自分自身しかいない。
自分という作品を、傑作にするのか、駄作にするのか。
すべては、己の心がけひとつである。
[取材執筆・構成・インタビュー写真撮影]
真田明日美