「国内SI業界はガラパゴスでした」APC内田氏が語るSIerの新しい形とは?
- 内田 武志(うちだ たけし)
- 株式会社エーピーコミュニケーションズ 代表取締役社長兼CEO
1992年に早稲田大学を卒業後、富士銀行(現:みずほ銀行)へ入行。大手通信会社の営業担当を経て、デリバティブ(金融派生商品)企画部門へ。その後、グループの投資ファンドにて投資先のバリューアップを務める。2006年に銀行を退職後、エーピーコミュニケーションズ(本社最寄り:神田)の株式を取得し、代表取締役に就任する。
技術力だけじゃない、総合的な力を兼ね備えたエンジニアを育成
―エーピーコミュニケーションズ(以下APC)の事業内容についてご説明をお願いします。
一言で言うと、システムインテグレーター(System Integrator/SI/SIer/エスアイアー)です。企業様のニーズに合わせた情報システムを開発・構築しています。
弊社の従業員は現在約300名。うち100名が本社で働き、残り200名のエンジニアが企業様に常駐してサービスの提供を行い、満足感と利益の向上に努めています。さらに本社の元請け部門と現場チームを連携させることで情報や人材を共有することができ、コンサルティングやコスト削減といった、より幅広いニーズにお応えすることが可能です。
常駐と元請けの完全体制によるシナジー(相乗)効果をご提供できる点、そしてそれを早くから取り組み、実行し続けてきた点が、弊社の強みとなっています。
―顧客先に直接常駐するというシステムは、派遣するエンジニアのスキルアップも期待できそうですね。
一概にそう言えるわけではありません。顧客先に直接常駐だけでなく、本社でも様々な取り組みが必要だと言えます。
エンジニアとしての技術力はもちろん、お客様の視点に常に立ち、マネジメントやコミュニケーション能力といった幅広いキャパシティを持つマルチエンジニア。そのマルチエンジニアが創るこれからのSIerを、弊社では、「Neo SIer(ネオエスアイアー)」と呼んでいます。弊社が「Neo SIer」になるためには、社員がマルチエンジニアになっていくことが必要であり、そのための取り組みを行っています。
具体的には、まず「APアカデミー」という社内大学制度。入社1年目の新人からベテラン層に至るまで、それぞれのステージに合わせた50種類以上の教育プログラムを自社内で設置し、社内外から講師を呼んで講座を開いています。この制度は弊社の全社員が受講することが可能です。
また、昨年(2014年)から「8a1(ハーイ)」という外部の方にもオープンな勉強会も開いています。こちらは弊社の社員が講師となり、受講者を社外からも募ることで、講師を担当する弊社のハイレベルな技術者のさらなる能力向上を見込み、同時にボトムアップ的に後進を育成していくという循環を生み出しています。
―御社は『PrinPad(プリンパッド)』をはじめとした、自社サービスの開発にも取り組んでいますが、これも「Neo SIer」になるためのプログラムの一環なのでしょうか。
「Neo SIer」となるためには、サービスを提供する先……つまりお客様ですが、お客様、企業様の価値を上げるために自身のスペシャリティを発揮することを考えなくてはなりません。ですから、SIerである我々は自社サービスを持つことは絶対だと思っています。
エンジニアの可能性を広げること、またエンジニア自身にも成長する楽しさ、新しいことに挑戦できるおもしろさを是非、見出してほしいですね。
“ガラパゴス化”していた日本のSI企業にメスを入れる
―「Neo SIer」になる必要性を感じたのは、どういった経緯からでしょうか。
僕がAPCに入った約10年前まで、日本のSI業界全体が「縦割り」の「分業制&下請け制」になっていました。ひとつの注文に対し、パーツごとに下請け業者が複数存在している。各社、担当分のパーツをつくったら納品しておしまい、というような感覚になっていたんです。
僕はこの状態に、ずっと違和感を覚えていました。最終的にお客様が本当に求めているものが見えづらくなっているし、各社の力のベクトルが同じ方向を向いていない。海外から見ても異常な業態です。このころ日本経済はまだまだ活気があり、日本のSI企業は自分たちの仕事のやり方に自信を持っていたので、日本独自の業態に発展してしまった。完全に“ガラパゴス化”していたんです。
そこで、APCに入社した当時、こうした従来の感覚を捨ててグローバルスタンダードな新しい業態のSIをつくろうと、一から組織づくりを見直しました。ITバブルも崩壊しましたし、これからは「日本にいるから」「東京だから」といった、ロケーションにこだわった考え方は捨てなければならない。海外のどこへ行くにも、同じ東京でやるような感覚でないといけないと。
そういった理由から、弊社ではSI部門のなかだけでなく、お客様先でのシステム開発を請け負う部門、自主サービス開発部門と、絶えず人事異動を行っています。
―これからはエンジニアだからとひとつのところにとどまらず、既存の常識にもとらわれない感覚を持つ必要があると。
そうですね。それと同時に、昔はきれいなプログラムを書くことを競う時代でしたが、今はきれいなプログラムを書くのは当たり前で、そこに「デザイン性」「アート感覚」といった今までと全く違う、クリエイティビティな要素を合わせていかないといけない時代になっています。ますますロケーションにはこだわっていられないですよね。
SI業界全体がフラットになり、異分野の人と連携していく。その点を確実におさえていく必要があると考えています。
サッカーがすべてだった学生時代。挫折を経験し、自分を見失いかける
―内田さんの学生時代についてお聞かせください。
僕は小学校2年から大学4年までサッカーを続けていました。それまではプラモデルをつくったり絵を描くのが好きな子どもで、みんながサッカーをやっているそばで黙々と泥団子をつくっているような子だったんですけれど(笑)。成長期になって体が大きくなってくると、足も速くなって、サッカーをやるようになったんです。
体格がよかった中学・高校時代は、在学中に区の大会にて優勝したりもしました。そのままサッカーを続けていきたいと、早稲田大学では体育会に入り、サッカー部の寮に入って生活したんです。
―早稲田大学の体育会というとかなり厳しい練習をするイメージがありますが、アルバイトのご経験は?
サッカー部の寮のあった東伏見に1か所だけゲームセンターがあったので、練習後に速攻で着替えて門限ギリギリまで働きに行っていた時期がありました。ただ、それは「Tomcat」という戦闘機のゲームが上手くなりたかったからだけなんですが(笑)。学生時代はほとんどサッカーでしたね。
そんななか、チームのレギュラーメンバーに選ばれるチャンスが訪れました。オリンピック選手も部内にいるような状況のなかで、僕にとっては唯一のチャンス。でもその直後、新入生にとんでもない選手が入ってきたんです。それが、相馬君(※1)でした。あまりにもレベルが違いすぎて、結局メンバーには選ばれなくて。それが大学3年生の時。それからは、サッカーも何もやる気がなくなってしまったんです。
―自分にとってサッカーがすべてだ、という想いがあったんですね。
サッカーがダメなら自分もダメだ。……いつの間にか、“自分にとって大切なもの”と、“自分の価値”が一緒になってしまっていたんです。でもそれだと、先に進めなくなってしまいますよね。この時、一緒の寮にいたひとつ上の先輩である曺さん(※2)が何かと世話を焼いてくれ、話を聞いてくれたりしたおかげで、何とか4年までサッカー部に居続けました。曺さんには今でも本当に感謝しています。この経験から“大切なもの”と“自分の価値”は切り離して考えるべきだと、知ることができましたね。
その道のプロフェッショナルと切磋琢磨しあった経験が、今の仕事の支えに
―そうしてサッカー選手への道から転向し、1992年に卒業後、富士銀行に就職されていますね。
寮にいた半分の学生は開幕したJリーグ関係の仕事に進みましたが、残りの半分は「サッカー選手になったやつよりも、いい生活をしてやる!」と言って、証券会社とか、銀行といった大手の会社に入社していきました。僕もそのひとりで、富士銀行の錦糸町店の営業部に配属となったんです。新入社員ということもあり、僕は「ジョブローテーション」という形のまま、2年間過ごしました。
そんな時、面倒を見てくれていた副支店長から「大手町の支店に行き、大手通信会社を担当してほしい」という指示があったんです。「なんで僕が?」と思いましたが、それまでつまらなかった仕事から脱却できるし、すごくやりがいを感じましたね。そこで僕の人生が始まったとも言えます。その時の副支店長との会話は今でも鮮明に覚えていますね。
副支店長「うっちゃん、ライボって知ってる?今度ライボを使うところに行ってもらうからね」 内田 「ライボ?果物ですか?」 副支店長「それはライチだよ(笑)。London Interbank Offered Rate(ロンドン銀行間取引金利)のこと」
……こんな会話でした(笑)。
―(笑)。具体的にはどのような仕事をされたのでしょう?
僕の担当した会社って、インターネットの設備や機器のリースサービスも行っているんですが、僕はそこでローン支援や、個人債権の回収部門と銀行側の情シス部門の間に入り、ほしいシステムを情シスのエンジニアに企画して伝える、という仕事をしました。
でもこの時、その会社は「デリバティブ取引(株式や金利、為替などの金融派生商品を使用した取引のこと)」をやっていて、そちらもすごくおもしろそうだったんです。4年ほど勤めたのち、希望の部署に行けるということになったので、迷わず「デリバティブをやりたい」と言い、デリバティブ企画部門に移りました。
そこで金融ディーラーやエンジニアといった人々と一緒に企画を出す仕事をしたんですが、専門用語など難しい言葉が多く複雑でした。でも、完璧にはわからずとも、そういった専門家の人と一緒に対話をしながら“新しいものを目指してつくる”というのは今の仕事と一緒ですし、とてもいい経験になりましたね。
―2002年、富士銀行は、第一勧業銀行と日本興業銀行と合併し、みずほコーポレート銀行(2013年にみずほ銀行を吸収合併し、「みずほ銀行」に改称)となりましたね。
実はこの合併のプロジェクトチームに僕も参画したんですが、会社がシステム統合に失敗して大規模なシステム障害が起きて……ユーザーから非難轟轟だし、あの時は大変でした(苦笑)。でもそういうことも経験です。そのあとはみずほコーポレート銀行の予算策定を担当したり、デリバティブ部門の目標を設定するなど、1年半から2年くらい、運営側に回って仕事をしました。
―2006年にAPCに転職されますが、どういった経緯からでしょうか。
詳しくはお話しできないのですが、ある出来事をきっかけに銀行を出て自分で事業をやろうと考え始めたんです。人生1回きりというのもあって。でもこのままここにいたら人脈も広がらない。そこで、様々な企業と接することができる投資ファンドの仕事をしたいと思っていたところ、みずほキャピタルパートナーズへ移ることが運よくできました。
そこでは投資先の価値を向上させるシステムを企画・導入するという仕事をしていたのですが、なかなか思うような成果が出せませんでした。なぜか、と考えた時に、投資先の企業の事業価値をあげたい投資ファンドと、システムやレポートを提出して早く収益を上げたいSIerやシステムコンサルタントとでは、目指す目的意識が違うからだということに気づいたんです
そこでその目的意識を合わせる必要性を確信し、その当時の仲間と共にシステムの運用監視体制をもつAPCと合流しました。
―投資先の価値を向上させる、という投資ファンドの業務スタイルは、今の御社の目指すSIのお仕事に近いですね。
そうですね。最初にお話しましたように、最終的に企業様の価値を上げる方向にベクトルを合わせて結果を出す、というのが日本のSIが目指すべき姿。でも、それが当時のAPCの経営陣の方々には理解されなかったんですよね。
結果、バイアウトした形で僕がAPCの経営に携わることになったんですが、残った社員の人たちにも同じように理念を理解してもらうのに、本当に苦労しまして。新しい経営方針で動けるようになるまで、下準備として8年かかってしまいました。
僕が一から会社をつくったほうがもしかしたら早かったかもしれません。でも、経営陣が変わったからといって残された社員に責任はありませんし、僕一人の力では何もできません。社員それぞれの得意な分野を活かしつつ、同じコンセプトに向かって力のベクトルを合わせる。それには時間がかかっても、どうしてもこだわりたかったんです。2年前くらいにようやく体制が整い、今、うまく回り始めたところですね。
建前をつくらず、社員一丸となって道を追求し続ける
―内田さんが仕事をするうえで譲れないポリシーは何でしょうか?
弊社の理念にも通じることですが、「建前を排除し、実質的なことを追求すること」ですね。
あとは何度も申し上げている通り、みんなのベクトルを合わせること。制度や施策をつくったとしても、それを読み違えて違う方向を向いてしまう可能性もある。そこをいかに同じ方向に向かせるかを、常に考えていますね。
―銀行員時代がとても長かったですが、仕事を長く続けるために意識していたことはありますか?
サッカー以外の仕事にキャリアチェンジしたのは挫折したからこそですし、その経験があったおかげで、その後の仕事で精神的につまずいたことはありません。キャリアチェンジは、本気で続けて挫折したその先のもの。だから、そんなに何回もできることじゃないんですよね。良いキャリアアップ、キャリアチェンジをしたいなら、まずはひとつのことに本気で取り組むことです。
でも、そうはいってもキャリア転換せざるを得ない場合があります。今僕らが目指す「Neo SIer」もそうですが、自分の能力を広げ、時には変えていかなければならない。だから僕ら経営者は、そうするだけの環境を社員に与えてあげることが大事なんじゃないかと思っています。
―それでは最後に、若い人へメッセージをお願いします。
就職活動をしていると、面接でいじわるな質問をしてくる面接官がいますよね。僕は実は海外に行ける仕事がしたかったので、それができそうな会社を選んでいたんですけれど、面接官のなかには「もし行けなかった場合はどうするんだ」「そこで何をしたいんだ」という質問ばかりをしてくる人もいて。
昔はそれに対して頭を使って一生懸命答えていましたけど、僕が今、自信持って言えるのは「行きたいものは行きたいんだ」という素直な気持ちを言葉に出すということ。「行けなかったとしても行くんだ」「したいことはしたいんだ」というその強い気持ちが伝わらない会社には、入らなくていい。もちろん、失礼な言い方にならない程度にですが(笑)そうすることで、間違いなく自分の人生の足がかりをつくることができると思います。
[取材]高橋秀明・真田明日美 [執筆・構成・撮影(インタビュー写真)]真田明日美